スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

風見鶏の寝言104 ver.1.1(追記1)

憲法ちゃんの誕生日お祝いの言葉」



1947年5月3日に誕生した現行憲法は、もうすぐ70周年となるという今日この頃、

政治家やそれを支援する財界では「とにかく憲法改正」という動きが目立ってきている。

https://www.youtube.com/watch?v=oIgHPGremlY



しかし、憲法が何なのか国民が十分に理解していなければ、「議論を」という呼びかけは「関心を持て、そして改憲に賛成せよ」という煽動になりかねない

1つ1つの条文の熟知は必要ないが、そもそも憲法が何なのかを知っていなければならない。



憲法の内容は、大きく2つ。

1つ目は、全ての国民(ものによっては全人類)が保有する権利を、政府が何かと理由をつけて侵害しないよう国家による侵害から保護すること。

2つ目は、1つ目を前提に、国家のシステムがどうあるべきかということ。


ここで、憲法が国家から保護している国民の権利は、そもそも国家がなくても、成文化した憲法がなくても、当然に人々が持つ普遍的な権利である
(だから、イギリスは文字にしていない)

日本の今の憲法は、それを文字にした。

この考え方は今の憲法制定にアメリカが関与したからと言って変わるところはない。
(むしろアメリカが、軍国主義に走り国民の権利を蔑ろにしていた日本に教えたことである。)

なにせ国家はともすれば侵害しようとする。骨抜きにしようとする。課税し、規制しようとする

だからこそ、日本の憲法は改正するための手続を厳しくした。

改正を謳った"改悪"にならぬよう、国民投票を求めることで、国民による国家の監視を強化させた

さらに、政治家・政府を含め、全ての公務員に憲法を保持し守る義務を、明文で課している

政府も政治家も信用できないからである。

この考え方が維持されている限り、憲法とは国民を国家から守るものである。

つまり、国や政府が憲法を嫌うとしても、今の憲法が国民に悪さをすることはない



時が経てば人々の常識は変わる。

しかし、上述のように、憲法が守っている国民の権利は、時代の変化に左右されない不朽不変の性質のものである。
(憲法自身も、時の経過によって不具合が生じないよう、抽象的な文言にしてある。)

したがって、改正は、必要があるとしても、本来ごく部分的な箇所に止まる。

憲法は、企業の不祥事を契機に各種業法を改正する場合と同じノリで、変えてはならない

規制のためのものではないからである。



今、改憲派には、3種類が混在している。

1つ、特定のいくつかの条文を指し、具体的にどう変えるべきか主張する者(真の改憲派)

1つ、改正の機に乗じて、自己または国、特定の企業・団体が利益を得やすくなるよう仕組みたい者。

1つ、単に改憲時の大臣として署名し、または、改憲議論に携わった政治家として名を残したい者。




今、日本国民は日本史上初、最難関の試練を課されている

まず、政治家の主張を、上の3種類に聞き分けなければならない。
(1番目のふりをした、2番目が多いことに気づくだろう)

そして、どの点の議論が真に「国民的議論」を要するものか見極めなければならない

その上で、各主張につき、それが本当に必要なことか否かを各自、吟味しなければならない。

これは簡単ではない。が、少なくとも言えることは、
1,「全部を変えたい」「根本的に変えたい」などの主張を、信用してはならない。

2,「改正で日本に活力を」「改正して新たな日本の出発を」「改憲して経済成長を」なども、凡そ信用できるものではない。

3,「アメリカの押しつけ憲法」だからという者は、憲法を理解していない。



憲法よ、誕生日おめでとう。
続きを読む »
スポンサーサイト

風見鶏の寝言100

「国民に問われる2択」




今は昔、中国の皇帝の下で、親子で公務員をしている者がいた。
息子はあるとき、父親が巨額の横領を働いていることに気づく。
このとき、息子は父親を通報するのが正しいか、父親を匿うのが正しいか。



これについて、かの有名な諸子百家の中で大きな対立がある。

孔子は、息子は父親を匿うべきとし、通報するなどもってのほかだとする。

それは、孔子が家族道徳を重視し、親を敬う気持ち「孝」を、皇帝への忠誠心より優越するものとしたからである。

これに対して、

法家の韓非(かんぴ)は、むしろ逆に横領を報告するのを良しとする。

そして、親への孝行と皇帝への忠誠心は、一方を立てれば他方が立たないという関係にあるとし、見事に食い違うという
(五蠹編)

法家は儒家の系列であり、孔子と同じ流派であるが、両者がこうも立場が異なるのは、実に面白い。

そして、上の例で言えば、通報する"肯定説"としない"否定説"とは、どっちもありえる2つの見解である。



今、読者の皆は、横領はれっきとした犯罪であって、通報しないのはけしからんと思うかもしれない。

だがそれは、単に今の刑罰法規が、親が職場で行った横領を通報しないことを特に保護しない姿勢をとったからである。

つまり、上の2つの否定説の立場をとったからに過ぎない。

これが、もし今後、新たにそういう場合の刑罰を免除するなどの規定ができれば、話はまた変わる。




さて、これと似た問題は他の場面でもあるようである。

そして、今まさに、立場が変わるかもしれない分野がある。

例えば、以下のような場合である。

弁護士Aは、企業B社の顧問弁護士をしている
Aはある日、企業Bが、老人などをカモにして詐欺を働き続け、その被害額が10億円にも及ぶことを発見した。
Aは、警察に通報してよいか?



読者の皆は、どう思うか?

最初の例になぞらえれば、弁護士の顧問会社への孝行と、国延いては国民への忠誠が対立しているのである。

一般に弁護士は依頼者の利益のために働く

そして、依頼者から知った情報を外で口外してはならない(守秘義務)

とはいえ、例外的に、通報しても守秘義務に違反しないとされる場合は存在する。

例えば、以下のような場合である

弁護士Cが、依頼者Dと事件処理の相談をしているときに、Dが夜な夜な辻斬りのように人を殺していることわかったとき



このときは、守秘義務よりも、通報する正義が優先するとされる。

つまり、このときだけ肯定説を採っている。

しかし、上のように人が死傷することのない財産犯罪の場合には、現在の日本の法律では通報することは許されていない

つまり、否定説の立場である。

なぜかといえば、財産犯罪は、人が死傷するような罪に比べて軽いからという。

なぜ、軽いのかといえば、財産犯罪は、金を返してもらえさえすれば、取り返しがつくからであるという。

だが……本当にそういえるだろうか??

先日、詐欺によって、会社で働いていた多くの人々の年金基金となるべき資金を全て失ったAIJという企業があった。

現在、そのAIJ社長は実刑判決が出ている。
※ソースはこちら

刑罰はいいとして、では失われた1300億円は取り返しが利くといえるか?

その社長が有する全財産を全て処分したところで、到底1300億円には及ばない。

被害者である多くの人々の退職後の数十年間はどうなるのか?

もし、仮に1億円程度の段階でAIJの顧問弁護士がその実態に気づいていたというような事実があったならば、その弁護士を許せるだろうか?

少なくとも、この事件について取り返しが利くと説明できない限り、全て経済犯罪なら軽い罪だという論は詭弁と言わざるを得ない


今、世界的に、通報すべきか否かというこの問題が議論されている。

そして、このような経済犯罪も含めて弁護士が通報すべきだとする立場にちょっとずつ変わりつつある。

弁護士が通報できないと、インサイダー取引や、違法金のロンダリング操作の取締が難しいというのが理由の1つらしい。

国によっては、通報しなければならないとする法律を作ったところもある。

要するに、今、全世界を巻き込んで、もう一度、対立する2つの利益のどっちを優先すべきか、問われているのである。

日本の弁護士会は、弁護士が依頼を得にくくなることを懸念して、頑なに通報"否定説"を貫いている。

しかし、犯罪を見てしまったのに知らない振りをすることが許されるかは、これこそ本来国民的議論をすべきではないか。

しかも、多くの国民はそのような議論があることすら知らされていないのではないか?


もう一度、読者の皆は、どう思うか? 

どうやら、今、将来の日本の弁護士の姿を決めるときが来ているようである。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。