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風見鶏の寝言032

「誤魔化された暴動



近年、イギリス・アメリカ・フランス・日本等の所謂先進諸国のみならず、中東・エジプト・リビアに関するニュースでもしばしば民衆の「デモ」という報道を耳にする。

ところで、テレビ報道は「デモ」という言葉を極めて広く使っている
(以下、各例、ただし、内容はあくまでサンプルとして掲げたものであり正確性の保障はしていない)

1、

レポーター「毎週金曜日、原発の再稼働に反対・送電分離を主張する電力自由派の市民が官邸前に集まり、プラカードを掲げて声を上げています。以上、官邸前からお伝えしました。」



2、

レポーター「NY市街5番通りを、数万人規模の市民が格差是正を訴えて行進しました。」



3、

レポーター「中国北京市街地で、made in Japanの不買を主張してデモ隊が警官隊と衝突し、付近の日本系店舗は窓を割られ、日本車が転覆される等の被害が出ています。警官隊は、ホースによる放水で対抗しています。」


または

歴史系ビデオナレーター「1968年から69年にかけて、学生運動を率いる一派は、東大安田講堂に立てこもり、警官隊に対して火焔瓶を投擲する等して、衝突しました。この一連の騒動で、この69年は東大入試が行われない唯一の年度となりました。」



4、

レポーター「シリア中心部で、反政府組織が銃を携行してデモをしたところに、政府が軍隊を出動させ、戦車で轢死する等市民に甚大な被害が生じている模様です。」





ところが、本来、「デモ」は、「暴動」とは絶対的に区別されるものであり、仮に「暴動」に該当するならば、則ちそれは「デモ」ではあり得ないのである。

現在の、報道機関は、この区別を曖昧にしている傾向がある。

暴動」との区別という観点で検討すると、3と4は明らかに「暴動」であって、「デモ」と呼ぶのは相応しくないものと言えよう。

特に、3において上では「デモ」と使われるが、下の所謂東大紛争・東大闘争は、警官隊と衝突するような実態は上と類似するが、「紛争・闘争」とされており、歴史的にもこれを「デモ」と記載する歴史教科書はない。

つまり、「デモ」と呼ぶべきは1と2のみである。

これを聞くと、直ちに「ただ口々に反対と叫ぶだけでは、全く何の効果もないだろう。時間の無駄だ」と指摘する者があろう

だが、そもそも「デモ」は、大まかに言えば、自分の主張を本にして出版することと同じように、放ちっぱなしで必ずしも受け取って欲しい相手に受領されることが約束されているものではなく、革命やクーデタのように現状の実態や体制を即時に強制的に変化させるものではない

言ってみれば、

継続していく内に、次第に世論の支持を受けるかもしれない

世論の支持が拡がれば政府の政策に反映されるかもしれない

という性質のものであって、気長にやるくらいがちょうどいいのである。




では、なぜ日本では「デモ」と「暴動」がかくも混同されがちなのか?

これに明確に回答する学説はないように思われる。

ただ、ひょっとすると、歴史的に日本は、戦後の憲法が成立して「デモ」が強い保障を受けるようになった時期と、社会主義による革命運動の思想が広く受け入れられた時期とが、たった10~20年程度の間隔しかなかったがために、憲法によって厚く保護されている「デモ」と情熱的な「革命」や「その派生的暴動」とが、区別され切らずにごっちゃのまま、受容されてしまったという事情があるのかもしれない。

もし、現在、60才代後半から80才代の方々が、「デモ」と聞くと咄嗟にマルクス・レーニン・社会主義等の単語を連想するのであれば、この可能性は高いと言えよう。



混同を生じた理由は何であれ、今後の動向としては、どうなるだろうか。

次第に「デモ」の使い方が絞られていくか、「デモ」自体は広く使うままで、本来の「デモ」の意を指す別の言葉(合法デモ・理性的デモ・非暴力デモ等)を作り出すか、いずれになるのか見ていきたいと思う。

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