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風見鶏の寝言101

クジラのおはなし」



クジラと言えば、捕鯨の是非を問う議論がある。

日本は2014年夏頃、調査捕鯨の続行の是非を巡って国際捕鯨委員会で少数派に転落した。

この内容については、いくつかのの論争点が一緒くたにされている嫌いがある。

☆捕鯨は文化か否か
☆日本の調査とは何なのか



個体数の維持など、もう少しあるかもしれないが、今はこれだけに留める



さて、まず第一の文化か否かについて、これを完全に否定する論証は極めて難しい。

なぜなら、文化という概念がきわめて不明確だからである。

何をしていれば文化であって、何が欠けると文化に該当しないのか、
どれくらいの人々が同じ行為を共にしていれば文化で、その人数がどこまで減ると文化でなくなるのか、
どれくらいの期間に亘って続いていれば文化で、廃れ始めてからどれほどの期間が経過すると文化でなくなるのか、

よく考えると、明確な指標などほとんど存在しないことがわかる。

文化を認める範囲を広くし過ぎれば、むしろ文化でないものを探す方が難しくなる

下手をするとA家に代々伝わる調理知識と、隣家B家に伝わる調理知識もそれぞれ別文化になりそうである

日本誕生から今までの間、全国を見れば、少なくともある期間、クジラを食べていたことがある地域というのは、相当に広いとされる。

田地が未開拓のときや大飢饉のとき、災害で復旧に時間がかかり農作物がとれなかったときなど、それぞれ色々な事情がありうる

したがって、何らかの理由で、ある期間クジラを食べたとしても何も不思議ではない。

しかし、2000年以上続く日本の歴史の中で、各村社会ごとに観察して、どこかの5年や10年または50年ほど、クジラを食べたことがあるとき、それをその地域の文化と言えるか否かは、上述のように甚だ難しい。

簡単に、文化だと判断できるものではない。

これが文化なら、恐らく日本に棲息する鹿・猪・熊・海豚・亀・鯱など相当の種類の動物も、それを食べる文化があることになる。

しかし、同時に、簡単に文化でないと判断できるものでもない

つまり、鯨食文化が存在したか否か、及び、今存在するか否かの論争に決着がつく見込はしばらくない。

強いて言えば、将来、仮に捕鯨が世界的に禁止されて日本人が誰もクジラを食べなくなったとき、もしかすると文化だったかもしれないものが確定的に消滅したと言えるだけのことである。

それこそ文化人類学者をランダムに集めてくれば、文化という概念の捉え方からして十人十色の説がうかがえる

捕鯨組織や反捕鯨組織は、それぞれその中から都合のいい人を自分の論の支えとして抱える
例えば、コチラのお方
(これ自体は政治的行動をする団体には常に見られることである)

要するに、この議論は泥沼になることが目に見えている

捕鯨肯定派は、「文化」といえば誰もそれが明らかな誤りだと指摘できないことを利用したがる傾向がある

しかし、同時に、捕鯨肯定派は、文化であると証明できているわけでもない。

この点を突き詰めようとするのは、研究者に任せればよい問題である。
※なお、有名な「白鯨」は、鯨油採取のための船であり、鯨食とは異なる


さらに、第二の日本の調査の点を考えるならば、鯨食文化の議論はズレている関係であることがわかる。

つまり、捕鯨の是非の問題と、鯨食文化の存否の問題は、異なる土俵である。

日本が行っているのは調査捕鯨であって、商業捕鯨ではないからである。

調査捕鯨は、読んで字の如く、科学的調査のために行われているものである。

食事のために動物が行う狩りではないし、それに相当するのは、商業捕鯨である。

では、なぜ科学的調査のための方法を議論する場で、クジラを食べる文化という話が出てくるのか?

例えば、こうだったら、違和感はないか?

機関「野生のシーラカンスの生態調査を行うから方法を議論しよう」
周辺住民「シーラカンス栄養高いんだよね、昔から食べてた。あぁ、調査のため殺すけどよろしく♪」



読者がその場にいたなら、「おまえそれ、食べたいだけだろ」と思わないだろうか??

まさにこの状況であり、日本の調査捕鯨の魂胆が、商業捕鯨禁止の潜脱にあることは、世界各国に見透かされている

つまり、殺す方法を伴う捕鯨方法の議論の場で鯨食文化論を出すのは、むしろ逆効果である。

説得力を失うことにしかならない。

捕鯨推進派は、こう主張する。

○船が小さくてクジラが生きたままでは調べられない
○殺さなければできない調査がある
○クジラだけ保護すると生態系のバランスが崩れる



この中で、殺す方法を伴う調査を正当化できるのは、2番目のみである。

船など作ればいい。

生態系の中での個体数調整のために人間様が殺してあげるというのは余計なお世話である。

人間様がわざわざ殺してあげずとも、それ以前からシャチというバランサーが存在しているのは周知の事実である

そういう意味では、生態系の論を持ち出すのは自滅行為ともなりかねない。

結局、殺す方法を伴う調査を正当化するのは、殺さなければ絶対に達成できない調査がある場合のみである。

そして、その調査は是非とも必要(必須)で調査目的からみて重要なものでなければならない。


それが説得的に示せるならば、国際捕鯨委員会も納得したであろう。

今、結論が逆になっているということはつまり…

殺さなければ絶対達成できないことも、その調査項目が絶対必須で重要であることも、説明できなかったということである

殺す方法を伴わない国々が同じ項目を調査できているならば、それは殺さなければ絶対達成できないという主張への反証である。

殺す方法を伴わない国々が同じ項目を調査していないならば、それは絶対必須で重要であるという主張への反証である。




殺す方法を伴う"調査捕鯨"を維持したいならば、日本が今考えるべきは、この抜き差しならない状況からの打開の糸口であって、文化論ではない。

国際捕鯨委員会は、殺さない方法による調査捕鯨については、何ら止めろとは言っていない。

日本が世界世論の常識を覆すような説明をできない限り、殺さない方法を良しとするのは自然の流れである。

殺す必要があると言えない限り、殺す必要はないと考えるのが当然だからである。

殺さない方法によるというだけであって、過度な保護をすることとはまた異なる。

それはまた、殺さない国々の側になったときに議論すればいいであろう。
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