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風見鶏の寝言102

ガリレオの逸話のアレ」



16世紀半ばから17世紀頃活躍したイタリアの科学者ガリレオ・ガリレイには、次のような逸話がある。

当時、世の中では重いものほど速く落下すると信じられていた
しかし、ガリレオは、落下速度の違いは空気抵抗があるからであり、それがなければ同じ高さから落とした物体は同時に着地すると主張した。
そして、ガリレオは重さの異なる大小2つの球体をピサの斜塔から落とし、両者が同時に落ちることを証明した。


pisa1.jpg


しかし、実はこの逸話は創作らしいとの疑義があり、実際にガリレオが行ったものではないとされているようである。

言われてみれば、誰しも納得できることである。

なぜなら上の実験では、ピサの斜塔から落下させるとき、やはり空気抵抗が生じているからである。

つまり、やはり軽い球は空気抵抗により少し落下のタイミングが延びたはずである。
pisa2.jpg

この実験の小さい鉄球を、軽い羽に変えてみれば、羽が遅く落ちるということは想像しやすい。

では、ガリレオの「重さに関係なく同じ高さから落ちた物体は同時に着地する」の主張は嘘か?

知っての通り、これは真実である。

このことは、高校物理の力学的エネルギーの範囲内で理解できる。(証明ではない)

おおよそは以下の通りである。

全ての物体は、地上から高く持ち上げられると、高さに比例してエネルギーを得る。

これを、位置エネルギー(Up)という。

そして、Up=質量m(kg)×重力加速度g(=9.8(m/ss))×高さh(m)で求められる。

一方、動いている物体は、速さの二乗に比例して、やはりエネルギーを得る。

これを、運動エネルギー(Uk)という。

そして、Uk=1/2×質量m(kg)×速度の二乗v^2(mm/ss)で求められる。

そして、ある物体が、摩擦や加熱など外からの力を受けずに動くとき、物体が有する位置エネルギーUpと運動エネルギーUkの合計は常に等しい

これを力学的エネルギー保存の法則(Up+Uk=一定)という。

今、空気抵抗のない場所で、質量M(kg)の鉄球と、質量m(kg)の羽を用意したとする。

これを、同じ高さH(m)に持って行くとき、

鉄球の位置エネルギーUp(鉄)=MgHとなる。

羽の位置エネルギーUp(羽)=mgHとなる。

両者は持ち上げられているだけで、まだ動いていないので両者とも運動エネルギーUkはゼロである。

したがって、鉄球の力学的エネルギーの合計Up+Uk=MgHとなり、羽の力学的エネルギーの合計Up+Uk=mgHとなる。

一方、地面に着地する瞬間、つまり高さがゼロになる瞬間の場合、

両者は、いずれも地面からの高さがゼロであるから、位置エネルギーUpはゼロである。

そして、両者が持つ力学的エネルギーは全て運動エネルギーになっている。

鉄球の運動エネルギーUk(鉄)=1/2×Mv^2

羽の運動エネルギーUk(羽)=1/2×mv^2

となる。

さて、上述のように、Up+Ukは一定であるから、

鉄球については、

Up(鉄)+Uk(鉄)=MgH+0=0+1/2×Mv^2が成立する

羽についても、

Up(羽)+Uk(羽)=mgH+0=0+1/2×mv^2が成立する。

このとき、

鉄の着地の瞬間における速度v=√(2/M×MgH)=√(2gH)であり、

羽の着地の瞬間における速度v=√(2/m×mgH)=√(2gH)である。

要するに、着地する瞬間の速度は同じなのである。

そして、落下速度を加速させるのは両者とも重力加速度gであるからこれまた同じである。

結局、同じ高さから静かに落下させた物体は、質量に関係なく、同じように加速し、同じ速度で着地する。

そして、同じ加速度であるから、同じ速度になるまでの時間t(s)=v(m/s)÷g(m/ss)も同じである。

したがって、同じ時間で着地するのである。





理屈はわかったとしても、なお、高校で習ったとき、誰もが思ったに違いない。

「実際にやってみて欲しい、軽い羽が鉄球と同じ速度で並んで落ちる様子は俄に想像できない」と。

実は、NASAで宇宙飛行士の訓練に使う装置を使って、実際にやってみた実験映像がある

感動したので、紹介したい。

まず、空気のある状態で落下させる。

次に、真空にした状態で落下させる。
※後者だけ見たい人は、2:51秒からご覧ください



百聞は一見にしかずである。

風見鶏の寝言101

クジラのおはなし」



クジラと言えば、捕鯨の是非を問う議論がある。

日本は2014年夏頃、調査捕鯨の続行の是非を巡って国際捕鯨委員会で少数派に転落した。

この内容については、いくつかのの論争点が一緒くたにされている嫌いがある。

☆捕鯨は文化か否か
☆日本の調査とは何なのか



個体数の維持など、もう少しあるかもしれないが、今はこれだけに留める



さて、まず第一の文化か否かについて、これを完全に否定する論証は極めて難しい。

なぜなら、文化という概念がきわめて不明確だからである。

何をしていれば文化であって、何が欠けると文化に該当しないのか、
どれくらいの人々が同じ行為を共にしていれば文化で、その人数がどこまで減ると文化でなくなるのか、
どれくらいの期間に亘って続いていれば文化で、廃れ始めてからどれほどの期間が経過すると文化でなくなるのか、

よく考えると、明確な指標などほとんど存在しないことがわかる。

文化を認める範囲を広くし過ぎれば、むしろ文化でないものを探す方が難しくなる

下手をするとA家に代々伝わる調理知識と、隣家B家に伝わる調理知識もそれぞれ別文化になりそうである

日本誕生から今までの間、全国を見れば、少なくともある期間、クジラを食べていたことがある地域というのは、相当に広いとされる。

田地が未開拓のときや大飢饉のとき、災害で復旧に時間がかかり農作物がとれなかったときなど、それぞれ色々な事情がありうる

したがって、何らかの理由で、ある期間クジラを食べたとしても何も不思議ではない。

しかし、2000年以上続く日本の歴史の中で、各村社会ごとに観察して、どこかの5年や10年または50年ほど、クジラを食べたことがあるとき、それをその地域の文化と言えるか否かは、上述のように甚だ難しい。

簡単に、文化だと判断できるものではない。

これが文化なら、恐らく日本に棲息する鹿・猪・熊・海豚・亀・鯱など相当の種類の動物も、それを食べる文化があることになる。

しかし、同時に、簡単に文化でないと判断できるものでもない

つまり、鯨食文化が存在したか否か、及び、今存在するか否かの論争に決着がつく見込はしばらくない。

強いて言えば、将来、仮に捕鯨が世界的に禁止されて日本人が誰もクジラを食べなくなったとき、もしかすると文化だったかもしれないものが確定的に消滅したと言えるだけのことである。

それこそ文化人類学者をランダムに集めてくれば、文化という概念の捉え方からして十人十色の説がうかがえる

捕鯨組織や反捕鯨組織は、それぞれその中から都合のいい人を自分の論の支えとして抱える
例えば、コチラのお方
(これ自体は政治的行動をする団体には常に見られることである)

要するに、この議論は泥沼になることが目に見えている

捕鯨肯定派は、「文化」といえば誰もそれが明らかな誤りだと指摘できないことを利用したがる傾向がある

しかし、同時に、捕鯨肯定派は、文化であると証明できているわけでもない。

この点を突き詰めようとするのは、研究者に任せればよい問題である。
※なお、有名な「白鯨」は、鯨油採取のための船であり、鯨食とは異なる


さらに、第二の日本の調査の点を考えるならば、鯨食文化の議論はズレている関係であることがわかる。

つまり、捕鯨の是非の問題と、鯨食文化の存否の問題は、異なる土俵である。

日本が行っているのは調査捕鯨であって、商業捕鯨ではないからである。

調査捕鯨は、読んで字の如く、科学的調査のために行われているものである。

食事のために動物が行う狩りではないし、それに相当するのは、商業捕鯨である。

では、なぜ科学的調査のための方法を議論する場で、クジラを食べる文化という話が出てくるのか?

例えば、こうだったら、違和感はないか?

機関「野生のシーラカンスの生態調査を行うから方法を議論しよう」
周辺住民「シーラカンス栄養高いんだよね、昔から食べてた。あぁ、調査のため殺すけどよろしく♪」



読者がその場にいたなら、「おまえそれ、食べたいだけだろ」と思わないだろうか??

まさにこの状況であり、日本の調査捕鯨の魂胆が、商業捕鯨禁止の潜脱にあることは、世界各国に見透かされている

つまり、殺す方法を伴う捕鯨方法の議論の場で鯨食文化論を出すのは、むしろ逆効果である。

説得力を失うことにしかならない。

捕鯨推進派は、こう主張する。

○船が小さくてクジラが生きたままでは調べられない
○殺さなければできない調査がある
○クジラだけ保護すると生態系のバランスが崩れる



この中で、殺す方法を伴う調査を正当化できるのは、2番目のみである。

船など作ればいい。

生態系の中での個体数調整のために人間様が殺してあげるというのは余計なお世話である。

人間様がわざわざ殺してあげずとも、それ以前からシャチというバランサーが存在しているのは周知の事実である

そういう意味では、生態系の論を持ち出すのは自滅行為ともなりかねない。

結局、殺す方法を伴う調査を正当化するのは、殺さなければ絶対に達成できない調査がある場合のみである。

そして、その調査は是非とも必要(必須)で調査目的からみて重要なものでなければならない。


それが説得的に示せるならば、国際捕鯨委員会も納得したであろう。

今、結論が逆になっているということはつまり…

殺さなければ絶対達成できないことも、その調査項目が絶対必須で重要であることも、説明できなかったということである

殺す方法を伴わない国々が同じ項目を調査できているならば、それは殺さなければ絶対達成できないという主張への反証である。

殺す方法を伴わない国々が同じ項目を調査していないならば、それは絶対必須で重要であるという主張への反証である。




殺す方法を伴う"調査捕鯨"を維持したいならば、日本が今考えるべきは、この抜き差しならない状況からの打開の糸口であって、文化論ではない。

国際捕鯨委員会は、殺さない方法による調査捕鯨については、何ら止めろとは言っていない。

日本が世界世論の常識を覆すような説明をできない限り、殺さない方法を良しとするのは自然の流れである。

殺す必要があると言えない限り、殺す必要はないと考えるのが当然だからである。

殺さない方法によるというだけであって、過度な保護をすることとはまた異なる。

それはまた、殺さない国々の側になったときに議論すればいいであろう。

風見鶏の寝言100

「国民に問われる2択」




今は昔、中国の皇帝の下で、親子で公務員をしている者がいた。
息子はあるとき、父親が巨額の横領を働いていることに気づく。
このとき、息子は父親を通報するのが正しいか、父親を匿うのが正しいか。



これについて、かの有名な諸子百家の中で大きな対立がある。

孔子は、息子は父親を匿うべきとし、通報するなどもってのほかだとする。

それは、孔子が家族道徳を重視し、親を敬う気持ち「孝」を、皇帝への忠誠心より優越するものとしたからである。

これに対して、

法家の韓非(かんぴ)は、むしろ逆に横領を報告するのを良しとする。

そして、親への孝行と皇帝への忠誠心は、一方を立てれば他方が立たないという関係にあるとし、見事に食い違うという
(五蠹編)

法家は儒家の系列であり、孔子と同じ流派であるが、両者がこうも立場が異なるのは、実に面白い。

そして、上の例で言えば、通報する"肯定説"としない"否定説"とは、どっちもありえる2つの見解である。



今、読者の皆は、横領はれっきとした犯罪であって、通報しないのはけしからんと思うかもしれない。

だがそれは、単に今の刑罰法規が、親が職場で行った横領を通報しないことを特に保護しない姿勢をとったからである。

つまり、上の2つの否定説の立場をとったからに過ぎない。

これが、もし今後、新たにそういう場合の刑罰を免除するなどの規定ができれば、話はまた変わる。




さて、これと似た問題は他の場面でもあるようである。

そして、今まさに、立場が変わるかもしれない分野がある。

例えば、以下のような場合である。

弁護士Aは、企業B社の顧問弁護士をしている
Aはある日、企業Bが、老人などをカモにして詐欺を働き続け、その被害額が10億円にも及ぶことを発見した。
Aは、警察に通報してよいか?



読者の皆は、どう思うか?

最初の例になぞらえれば、弁護士の顧問会社への孝行と、国延いては国民への忠誠が対立しているのである。

一般に弁護士は依頼者の利益のために働く

そして、依頼者から知った情報を外で口外してはならない(守秘義務)

とはいえ、例外的に、通報しても守秘義務に違反しないとされる場合は存在する。

例えば、以下のような場合である

弁護士Cが、依頼者Dと事件処理の相談をしているときに、Dが夜な夜な辻斬りのように人を殺していることわかったとき



このときは、守秘義務よりも、通報する正義が優先するとされる。

つまり、このときだけ肯定説を採っている。

しかし、上のように人が死傷することのない財産犯罪の場合には、現在の日本の法律では通報することは許されていない

つまり、否定説の立場である。

なぜかといえば、財産犯罪は、人が死傷するような罪に比べて軽いからという。

なぜ、軽いのかといえば、財産犯罪は、金を返してもらえさえすれば、取り返しがつくからであるという。

だが……本当にそういえるだろうか??

先日、詐欺によって、会社で働いていた多くの人々の年金基金となるべき資金を全て失ったAIJという企業があった。

現在、そのAIJ社長は実刑判決が出ている。
※ソースはこちら

刑罰はいいとして、では失われた1300億円は取り返しが利くといえるか?

その社長が有する全財産を全て処分したところで、到底1300億円には及ばない。

被害者である多くの人々の退職後の数十年間はどうなるのか?

もし、仮に1億円程度の段階でAIJの顧問弁護士がその実態に気づいていたというような事実があったならば、その弁護士を許せるだろうか?

少なくとも、この事件について取り返しが利くと説明できない限り、全て経済犯罪なら軽い罪だという論は詭弁と言わざるを得ない


今、世界的に、通報すべきか否かというこの問題が議論されている。

そして、このような経済犯罪も含めて弁護士が通報すべきだとする立場にちょっとずつ変わりつつある。

弁護士が通報できないと、インサイダー取引や、違法金のロンダリング操作の取締が難しいというのが理由の1つらしい。

国によっては、通報しなければならないとする法律を作ったところもある。

要するに、今、全世界を巻き込んで、もう一度、対立する2つの利益のどっちを優先すべきか、問われているのである。

日本の弁護士会は、弁護士が依頼を得にくくなることを懸念して、頑なに通報"否定説"を貫いている。

しかし、犯罪を見てしまったのに知らない振りをすることが許されるかは、これこそ本来国民的議論をすべきではないか。

しかも、多くの国民はそのような議論があることすら知らされていないのではないか?


もう一度、読者の皆は、どう思うか? 

どうやら、今、将来の日本の弁護士の姿を決めるときが来ているようである。
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